「縄文の漆」のはなし
武蔵野のある集落の風景
小高い丘にはトチやクルミの木が生えていて、麓の平地には川が流れている。
畑には大豆や小豆を植えて、収穫すると、土器に保存する。
時に弓を携え森へ入り、イノシシやシカを狩る。
土器や弓には赤や黒の漆が塗られている。
人々は日当たりのよいところでウルシの木を育て、漆を掻き、土器や弓に塗る。水に強いウルシの木は川岸の杭としても利用する。
これは、東京都東村山市にある下宅部(しもやけべ)遺跡を発掘して分かった、いまから3000~4000年前の縄文時代後期の暮らしぶりです。
都心から電車で1時間以内のところに、豊かな縄文の里がありました。
「八国山たいけんの里」
下宅部(しもやけべ)遺跡の発掘史料が保管されています。
ウルシの木を栽培していた
先日、学芸員の千葉敏朗先生にお世話になり、漆に関する縄文資料を見学させていただきました。縄文遺跡は全国に数多くありますが、この辺りは低湿地帯だったため有機物の保存状態がよく、特に漆関係の遺跡が多く発掘されたことで注目されました。
資料館に入り、最初に目に飛び込んできたのは漆掻きの跡が残るウルシの木。
しかし、見慣れた漆掻きの木よりもだいぶ細く、直径6㎝ほどしかありません。
それはなぜか。
ウルシ林を育成するために間伐を行っていたからなのです。ウルシの木を間伐するときに石斧で切り倒すと、たとえ若木であっても漆の樹液が飛び散ります。縄文人も私たちと同じ人間ですからおそらくかぶれたことでしょう。よって、先に漆を掻いて樹液を採取してしまってから切り倒します。このことから、単に野生のウルシの木から漆液を採っていたのではなく、林を管理して手入れしながら育てていたことが分かります。さらに、水に強いウルシの間伐材は、川底に打つ杭として使われていました。
縄文式土器と漆
縄文の赤と黒
漆器の代表的な色と言えば今も昔も「赤」と「黒」。
それは縄文時代にも見ることができます。
漆が塗られた代表的出土品のもうひとつ、「弓」。
木で作られた弓の全体に塗って強度を出すほかに、糸や樹皮紐などを巻いたグリップの部分には、それを固着するため、または装飾のために、漆が塗られています。装飾性の高いものも多く、砂粒交じりの漆でキラキラと光っていたり、赤と黒の漆で紋様が描かれていたりします。
漆液を撹拌し(ナヤシ)、加熱して水分を飛ばす(クロメ)と、黒くなります。
赤い漆にするためにはこれに赤の顔料を入れていました。
赤い顔料は2種類。
・ベンガラ=酸化第二鉄
・辰砂(しんしゃ)=硫化水銀の鉱物。水銀朱とも言われます。
下宅部遺跡でも水銀朱を磨りつぶした痕跡のある磨き石が見つかっています。
ここで注目すべきは辰砂が関東エリアでは採れないこと。東北や北海道で採取されたものが渡ってきたものなのです。当時から遠い北国との交易があった証です。
縄文のイメージが変わりませんか?
赤は、縄文人にとって大切な色でした。
血の色、すなわち生命の色であり、太陽の色であり、炎の色。一方、黒は死、闇、病。
陰陽のように、黒があってこそ赤が存在できる、そんな考え方があったのかもしれません。
獲物を狩るという非常に強度と性能が求められた弓という道具は、一方で与えられた命に感謝する儀礼にも使用されていました。それゆえ、弓には高い技術を要する塗りと紋様の装飾が施されました。
現代の漆工芸の基礎となる技術およびウルシの育成知識は、縄文時代にはすでに確立されていたのでした。
縄文から学ぶこと
現在、発掘資料は東村山市の「八国山たいけんの里」で見ることができます。遺跡の一部はいまも「八国山はっけんの森」の土の下に埋まったままです。いつかまた、新たな発見もあるのかも…。
現代の世によみがえった鮮やかな赤と黒の漆のある暮らし。そこに、縄文人の豊かな知識と精神性を見てとれます。と同時に、現代の暮らしのルーツが間違いなくそこにあることも、確固たる事実として実感することができるのです。
自然の恵みを活かし、感謝して、戦のない時代を1万年以上紡いだといわれる縄文時代。
私たちは何を学ぶことができるのでしょうか。
漆の歴史に興味のある方、縄文ファンの方にはぜひお勧めの資料館です。
取材先 下宅部遺跡「八国山たいけんの里」
http://www.city.higashimurayama.tokyo.jp/tanoshimi/rekishi/hachikokuyama/index.html